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「癒し」とは死を超えて広がる世界を感じられるようになること

2016年11月19日  投稿者:Simonton Japan

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おはようございます。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
本日は『統合医療でがんに克つ』(Vol.76)に掲載されました、
帯津三敬病院名誉院長であり、サイモントン療法協会会長でいらっしゃる
帯津良一先生の『養生塾』からのメッセージをお送りいたします。
 
◆矛盾を抱えながら生きていく人間の「さびしさ」
 
古代中国の哲学者であり、
道教(儒教・仏教と共に
中国3大宗教の1つとされる宗教)
の創案の中心人物である老子は、
 
「道・タオとは余計なものを
 少しずつ削ぎ落としていくことだ」
 
と言っています。
 
また、理想的な生き方とは、
 
「減らした上にまた減らすことによって
 何もないところに行きつき、
そして全てがなされること」
 
だと説いています。
 
なんと素晴らしい人生観なのでしょうか。
 
しかし、老子が言うような生き方を
実践したいと思っても、
なかなかできないのが人生です。
 
この世で生きている間、
私たちは世間を渡るための知識や、
快適な暮らしのための道具などを
ついつい溜め込んでしまいます。
 
私は、山口誓子の
「学問のさびしさに耐え炭をつぐ」
という俳句を思い出すたびに、
しみじみとした気持ちになります。
 
学問とは知識を蓄えることです。
したがって、老子が説く、
「減らした上にまた減らす」
という道とは異なります。
 
それでも、私たちは生きていくために
知識を蓄えざるをえません。
 
つまり、誓子はその矛盾を感じ取り、
「さびしさ」と表現したのではないでしょうか。
 
私たちは、社会の制約から
簡単に自由になれるわけではありません。
 
この地球にこの時代に生を受け、
やがて誕生前の世界に還っていくのは、
私たちに与えられた宿命なのです。
 
そのようなことに思いを巡らせるたび、
人間とはつくづくさびしいものだという
感慨に囚われます。
 
◆さびしさを実感するほど、人生を充実させようという志が生まれてくる
 
私は、日常の何気ない光景に、
人間の哀愁を感じることがあります。
 
たとえば、私はよく蕎麦屋に行くのですが、
1人で蕎麦をすすっている人の背中は
どこかさびしげです。
 
仲間と賑やかに盛り上がっている時には
隠されている寂寥感のようなものが、
1人でいると背中に表れるように感じます。
 
それはもしかしたら、
誰もがたった1人で生まれ、
1人で死んでいく宿命のせいかもしれません。
 
さびしさは「個人」という存在の限界を
感じることから生まれるのです。
 
けれども、
人生のさびしさを実感するほど、
この人生を充実させようという志が
生まれてきます。
 
その志こそが、
私たちにこの世に生きる意味を
与えてくれるのです。
 
「華厳経」というお経は、
どのような志を持つのかによって
人生の展開が変わってくると説いています。
 
たとえば、他人を蹴落として
自分だけが甘い汁を吸おうとする人は
誰からも信用されなくなるので、
結局、孤独で不幸せな思いをします。
 
それに対し、
生きとし生けるもの全ての安らぎを願う人は、
周りの人たちの小さな喜びも
自分の喜びと感じられるので、
豊かな人生を送ることができるはずです。
 
そのような心境は、まさに仏教で言う、
菩薩(如来に成ろうとする修行者)
そのものです。
 
菩薩は人として生まれた哀しみを
知っているからこそ、
個人の限界を超える共通の生命を悟り、
あらゆる存在の幸せを祈ることができるのです。
 
個人にとって最大の限界は、
間違いなく「死」です。
私たちはどんなに努めても
永遠に生きることはできません。
 
それでも、死に直面した瞬間、
生老病死という人生のプロセスを
肯定することができるのです。
 
それは、
「不安に震える心」「凍りついた心」で
死を迎えるのと何と大きな違いだと思います。
 
たとえ病状が劇的によくならなくても、
死を超えて広がる世界を
感じられるようになること、
さらには菩薩の心が自分の内に
息づいていると気づくこと。
 
私は、それらこそを「癒し」と
呼びたいと思っています。
 
◆生と死を一緒に直視せずして、生命の実像は見えてこない
 
がん患者さんにとり、
がん細胞の増殖を防いで生き延びることが
緊急の課題であるのは言うまでもありません。
 
それでも、私たちは、
広い意味での「癒し」をもっと大切に
考える必要があると思います。
 
そこで、述べておきたいのが
「治す」と「癒す」の違いです。
 
「治す」は「直す」と同じで、
電化製品の故障や壊れた家具を
直すのと変わりありません。
 
内臓を切除したり、
バイパスで血管をつないだりと、
肉体を修理するような治療は
「治す」と言っていいでしょう。
 
「治す」という作業は目に見えて
はっきりと成果が表れます。
ですから、
現代医療では「治す」ということにのみ
重点が置かれがちです。
 
一方の「癒す」は、
生命場のポテンシャルを回復することです。
その意味で、
「癒し」の対象は人間に限らず、動物や地球、
さらには死後の世界にも当てはまるでしょう。
 
医療における「癒し」とは、
食事療法や適度な運動、
リラクゼーション、瞑想、
グループによるサポートなどで、
主に生活習慣そのものを見直す作業に該当します。
 
近年、このような指導は、
慢性疾患の解消に
大きな成果を上げることで注目を浴びています。
 
とはいえ、
「癒し」という言葉の奥深さは、
単に病気からの回復のみを
意味しない点にあります。
 
あらゆる手段を尽くしても、
人間はいずれ必ず死を迎えます。
 
肉体の衰えを嘆き悲しみ、
肉体の修理に熱中するあまり、
その瞬間に生きているという事実を
深く味わえないとしたら本末転倒です。
 
究極の「癒し」とは、
生命を精一杯享受するからこそ
誰にでも訪れる死を
意味ある美しいものとして
受け止められるようになることです。
 
たとえ死に直面しても、
その瞬間に生命の喜びを
深く感じ取れるのであれば、
 
「癒された」といっていいのです。
 
私がそのような考えに辿り着いたのは、
全国からの重症のがん患者さんが
自分の病院に来院し、
その中で亡くなっていく方々を
多く見てきたからです。
 
生があるからこそ死が訪れ、
死があるからこそ生が輝きます。
 
両者を一緒に直視せずして、
生命の実像は見えてきません。
 
私が医療者として最も辛いのは、
死に直面して不安に脅えている
患者さんに対処する時です。
 
死の足音を間近に聞いている人には、
「頑張れ」「大丈夫」といった言葉は空回りし、
精神的な負担になるだけです。
 
なぜなら、それらの言葉は、
生の側のみに立ったものだからです。
 
以前私は次のような話を
聞いたことがあります。
 
死の恐怖に脅える患者さんに、
そのご家族が思わず
「私も後からまいりますので…」
と声をかけ、
その一言で患者さんは
安堵の笑みを浮かべた、
というのです。
 
愛情と思いやりに満ち、
真実をついた言葉に、
その患者さんはどれだけ癒されたことでしょう。
 
医師や看護師は、
死にゆく人と接する機会が多い分、
普段から死について
考える必要があるのではないでしょうか。
 
医療、とりわけがん医療に携わっていれば、
死の問題は避けて通れません。
 
私は、死を敗北だと捉えていません。
むしろ、死はより良い生を
まっとうするための到達点、
誇りを持って迎える瞬間だと思います。
 
死は未知なものではなく、
すでに私たちの存在に浸透しています。
そして、生の部分が
全て静かに過ぎ去った瞬間を、
私たちは死と呼んでいるに過ぎません。
 
確かに今この瞬間、私の肉体は生きています。
しかし、私という存在の本質は
単なる物質を超えた生命場です。
 
死とは、
肉体という衣服を脱ぎすてて裸になり、
本来の姿に還ることなのではないでしょうか
 
(帯津良一先生/帯津三敬病院名誉院長)
 
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